罪と重荷と救いを。
更生への第一歩

 犯罪加害者が唯一心を許せる存在となる教誨師。

 日本基督教団教誨師会会長の加藤幹夫牧師が説明する。

宗教教誨を訪れる人の多くは何らかの救いを求めています。自分を見つめなおしたい人、更生して新しい人生を生きたいと願う人もいます」

 だが、強制ではないため、受刑者や死刑囚が自らの意思で足を運んでくるのを待つ。

刑務所に入ってから宗教を知る人はたくさんいます。刑務所や拘置所は時間があるので、宗教的なものに触れる機会も多い。キリスト教なら聖書を読んだり、仏教なら写経をしたり。宗教の話を聞いてみたい、と訪れる人もいるのです」(加藤牧師)

 なぜかキリスト教を希望する人は多い。特に一対一で話をする『個人教誨』は人気で1人あたり、5〜10分ほどしか時間が取れない刑務所もあるそうだ。

 では、実際、現場で働く彼らは何を思うのか──。

 僧侶のA住職。40年以上、拘置所などで受刑者や死刑囚と向き合ってきた。中には凶悪事件の加害者もいた。

「被害者に対して懺悔し、悔い改めている人もいますが改心は非常に難しい問題です」

 そんなA住職が長年心がけてきた教誨スタイルは被収容者の言葉に真摯に耳を傾ける、傾聴の姿勢。

「自分たちの教理を教えたり、何か諭すのではないんです。彼らはわかってほしい、聞いてほしい、という思いがあります。聞くことがいちばん大切です。私はどんな罪で収監されているのかは、事前にはほとんど聞きませんし、裁判の記録も一切見ません」

 先入観を持たず接し、仏教の教えを住職自身の実体験を交えて語ることで相手との親近感が増し、徐々に心を開いてくれるという。

「過ちには自らで気づき、悔い改めることが重要。回数を重ねると彼らの様子も変わってきます」住職によると、人間は必ず変わるという。

「変わることを信じていかなければならない。その変わる何かのきっかけになる、それに出会う場が教誨です」

 刑務所宗教に出会い、立ち直っていくこともある。

 誰しもが罪を犯す可能性はある。お金があって、教育をしっかり受けていてもはずれていく人間もいる。

これも縁です。親鸞(しんらん)聖人は“人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである”とおっしゃっています。私だってそういう縁がくれば人を殺したくないと日ごろは思っていても、殺してしまうものです。ここはとても大切な視点で“人間として生きていく悲しみを共有する”ことが教誨の原点。そこから仏さまの光が差しこみ真の人間性回復が起こると信じます。仏教的な考えではこの世に生を享けてからが私の命が始まりではないのです。この命は、これまでもずっと続いてきて死んで終わりではない。未来にわたって果てしなく続くものなのです」

 そのサイクルの中で犯罪に手を染めてしまうことがあるとの考えだ。悪人も善人もいない。縁の中で繰り返されている。と語るA住職はこれまで多くの声を受け止めてきた。