精神的に支え合う、強い味方だった2人の鉄人
「あと半年」という番組が、約6年も続いたのは、視聴率が高かったからにほかならない。週刊誌や新聞などにも取り上げられ、小さな子どもたちまでもが「鉄人」を話題にするほどだ。当然のことながら、道場六三郎、陳建一、周富徳、神田川俊郎といった鉄人たちの名前も全国区となり一大ブームとなっていく。
だが、その一方で否定的な声もあった。「プロを愚弄する番組」「われわれの地位を下げる」「たった1時間でフランス料理が作れるか」など、開始当初には、さまざまな批判を浴びた。坂井さん個人にも「坂井の料理はフランス料理ではない」といった声が浴びせられたという。また、出演すること自体、心身共に疲弊する。挑戦者も大変だったが、鉄人には、さらに大きなプレッシャーがあった。それぞれのジャンルの名誉がかかり、鉄人として出演するということは負けられない戦いでもあったのだ。
そんな批判の声や大きなプレッシャーに耐えられたのは、仲間の存在が大きかったと坂井さん。特に親しかったのが道場さんと陳さんだ。
「2人は親友。鉄人になってみないとわからない苦しみを共有していたので、仲間意識というか連帯感が自然と強くなりました。精神的に支え合っていたんじゃないかな。彼らが負けると、自分のことのように悔しかった」
道場さんは、坂井さんよりひと回り年上で、陳さんはひと回り年下。3人ともオーナーシェフという立場が同じで、大のゴルフ好き。陳さんは、残念ながら2023年に他界したが、よく一緒にラウンドしたという。

「陳さんとは、コロナ禍前までは、3泊4日の中国各地へのゴルフ合宿を15年間続けていました。メンバーは陳さんと僕を含めて4人だけ。陳さんが運転する車に乗りきれないからメンバーは増やさないのが暗黙のルールでね。仕事の話は一切せずに、おそろいのウエアを着てゴルフざんまい。本当に陳さんはゴルフが好きだったね。闘病中も風邪をひいちゃいけないからと、抗がん剤でツルツルになった頭に帽子をかぶって、それでもゴルフをするぐらい」
と懐かしむ。また、合宿中の豪華な本場の中華料理とマッサージも楽しみだったという。陳さんのご子息で赤坂『四川飯店』オーナーシェフの陳建太郎さんは、
「坂井さんは、フレンチのシェフの中で、本場の四川料理を一番食べている人だと思います(笑)。本当に父とは仲良しで、大好きな大先輩。昔も今も、店にもよく食べに来てくださって、フカヒレソバが大のお気に入り。スタッフみんなに『美味しかった! ありがとう!』と、いつも笑顔で声をかけてくれます」
と語ってくれた。陳さん他界後も交流は続き、建太郎さんのシンガポール店でのコラボも実現した。坂井さんは早朝から調理場に立ち、食材選びから仕込みまで自ら行っていたという。また「経験を積ませたい」と同行スタッフはあえて海外経験のない若手を選ぶなど、料理への情熱とともに、後進の育成やスタッフを大切にする姿に感銘を受けたと語る。

ずっと昔から『ラ・ロシェル』の厨房には絨毯が敷かれている。これは“コンクリートだと足腰が冷える。スタッフには、できるだけいい環境で調理をしてほしい”という坂井さんのスタッフに対する思いからだ。
「ただ、掃除は大変だけどね(笑)」(坂井さん、以下同)
『料理の鉄人』の最終回は鉄人4人によるトーナメント制で、決勝に残ったのは、坂井さんと陳さん。勝者は坂井さんだったが、最善を尽くした満足感で、2人とも勝負はどうでもよかったと振り返る。何より、約6年にもわたる料理バトルという修羅場から、大きなプレッシャーから解放された瞬間だった。
妬みなどの悪意を含めたさまざまな批判・非難もあった『料理の鉄人』だが、視聴者をはじめとする人々の支持を受け、日本の料理史に確かな足跡を残した番組だったことは間違いない。