目次
Page 1
ー 断り続けた『料理の鉄人』への出演依頼
Page 2
ー 精神的に支え合う、強い味方だった2人の鉄人
Page 3
ー 戦争から還らなかった父。女手ひとつで育てた母 ー 16歳。仕出し弁当屋から始まった修業時代
Page 4
ー 日本のフレンチの先駆者、志度藤雄との出会い
Page 5
ー 料理人人生が大きく動いた恩人・金谷鮮治氏
Page 6
ー 『ラ・ロシェル』開店。ムッシュの誕生! ー 息子も認める愛妻家。50周年までは現役を目指す

 

 2024年12月13日。急逝した料理評論家の服部幸應氏の合同葬儀が都内でしめやかに行われた。参議院議員の山東昭子氏に続き、坂井宏行さんは弔辞を述べ、

「僕より若いのに……。78歳は早すぎる」

 と無念さを滲ませた。南青山にあるフランス料理レストラン『ラ・ロシェル』のオーナーシェフである坂井さんと服部氏には長年の親交があった。服部氏が校長・理事長を務めた服部栄養専門学校のマスターコースに特別講師として招かれ、現在も後進の指導にあたっている。そのきっかけとなったのが、服部氏も審査員として出演した伝説のテレビ番組『料理の鉄人』だ。

 1993〜'99年にフジテレビで放送された『料理の鉄人』は、料理対決をテーマにしたもので、毎回「鉄人」と呼ばれるシェフたちと「挑戦者」がキッチンスタジアム内の器具や食材を使い調理した料理を「審査員」が試食し、どちらが美味いか判定を下すという、当時としては革新的な番組だった。そして「鉄人・坂井宏行」の名を全国のみならず、世界に知らしめたのもこの番組だったのは間違いないだろう。

断り続けた『料理の鉄人』への出演依頼

 1994年2月27日。坂井さんは、初代フレンチの鉄人だった『クイーン・アリス』の石鍋裕シェフの後を継ぐ2代目フレンチの鉄人として登場した。実は当初、番組の出演依頼を何度も断っていたという。当時はバブル経済の崩壊の影響からやっと抜け出し、レストランが再び軌道に乗り始めた大事な時期だった。何より、直前に食材を決められ、たった1時間で何品かの料理を作るという番組内容。そして、石鍋シェフの後釜など到底無理だと固辞していたのである。

「断っても、断っても、番組スタッフは諦めずに店にやって来て、その頻度は、日に日に増すばかり。あげくの果てに勝手に僕用の派手なコックコートまで作って持ってきた。そして『この番組は、あと半年で終わる予定ですから出演回数はせいぜい2~3回です』という言葉を聞いて、石鍋さんをはじめとするシェフ仲間とも相談をしたうえで、最終的に受けることにしたんですよ。ところが番組は終わるどころか、延々と続いたんですから困ったものです(笑)」(坂井さん、以下同)

 懐かしそうに振り返る。

伝説の番組から四半世紀超―フレンチの鉄人、料理人・坂井宏行(撮影/廣瀬靖士)
伝説の番組から四半世紀超―フレンチの鉄人、料理人・坂井宏行(撮影/廣瀬靖士)

『料理の鉄人』のルールは料理人にとって想像以上に過酷なものだった。制限時間は1時間。その間に3品から6品、6人分を作る。事前にある程度のヒントはあるものの、対戦テーマの食材は本番10分前に初めて知らされ、挑戦者と鉄人の誰が対戦するのかもその場で決まる。包丁以外の調理道具、調味料、食材もほぼ持ち込めない。

 鉄人・坂井さんの最初の挑戦者は、フランス人のギィ・ショック氏で、食材は牡蠣だった。番組の案内役の鹿賀丈史から名前を呼ばれて調理をするキッチンスタジアムに立っても、10分ほどは恐怖心や緊張で身体が思うように動かない。それでも記念すべき初戦で見事、勝利を飾った。

「ものすごい緊張感でしたね。ただ、あと2~3回と聞いていたので、そのぐらいならなんとか耐えられるだろうと思ったんですよ」

 と笑う坂井さんだが、前述のとおり、このあと5年7か月、86回もの対戦を繰り広げることになる。ちなみに通算成績は86戦中70勝15敗1分けで、8連勝を3回達成。全鉄人の中で最多勝利という輝かしい成績を残した“最強の鉄人”だといえよう。