日本のフレンチの先駆者、志度藤雄との出会い
東京に戻った坂井さんは、新聞の求人欄のチェックが日課になった。そんなとき目に飛び込んできたのが「志度藤雄」という名前だ。志度氏は日本におけるフレンチの先駆者で、フランス料理を学ぶために海外に密航して、強制送還されてもまた行く、ということを繰り返した気骨のある人物。坂井さんにとっては憧れの存在だった。すぐに応募し、3年間、彼のレストラン『四季』で働くことになる。
「志度さんに出会って『これがフランス料理なんだ!』と感銘を受けました。当時は手に入らなかったオマール海老の代わりに伊勢海老を丸ごと使ってソースを作るなど、食材を贅沢に使う料理法に驚いたのを覚えています」
また志度氏は“ムッシュ”と呼ばれており「自分もいつか“ムッシュ”と呼ばれたい」と思うようになった。
志度氏の仕事への情熱は生半可ではなかった。早朝、誰より早く厨房に入り、夜は一番遅くまで残っている。
「いったいいつ寝ているんだろう、と思ったものです。まさに完璧主義のシェフでした。ただ、一番印象に残っているのは、僕が一斗缶を開けるときに缶切りを使わず、横着をして包丁を研ぐスチールの棒でグイッと穴をあけた。それを志度さんに見つかって、思い切りその棒でたたかれたこと(笑)。『缶切りを使え! 道具を大切にしろ!』と、ものすごい剣幕でした」
『四季』で過ごした3年間は、坂井さんにとって「フレンチのシェフはかくあるべし」という道しるべとなっていった。
その後、新宿の『チボリ』に2年、渋谷のフレンチ『レンカ』では初めてシェフとして厨房を任された。25歳のときだった。『レンカ』はシェフとしての第一歩となった思い出深い店でもあるが、生涯の伴侶となる妻・光子さんと出会った店でもある。彼女は、昼は資生堂のマネキンガールとして働き、夜は『レンカ』でウエートレスのアルバイトをしていたのだ。知り合ってすぐに付き合いが始まり、結婚した。
その後、1970年に開催された大阪万博のレストランでの料理長を半年務めた後、坂井さんは四谷の『元狩』という会員制クラブで働くこととなる。このことが、その後の料理人人生を決定づける出会いにつながっていったのだった。