『ラ・ロシェル』開店。ムッシュの誕生!
1980年、南青山の小原流会館の地階に『ラ・ロシェル』をオープンし、ついに独立を果たす。オーナーシェフとなった坂井さんだが「社長と呼ばれるのは気恥ずかしい」という理由で、坂井さんがかつて憧れた“ムッシュ”と呼ばれるようになったのもこのころだ。
当時からの坂井さんの行きつけで、表参道で49年店を構える『カフェ レ ジュ グルニエ』の斉藤修一オーナーは、
「当時のこの辺りは、本当に何もなかったんですよ。フランス料理なんてまだまだ高嶺の花の時代だったから、大変だったと思います。ムッシュは長髪、カウボーイハットにしゃれた服をいつも着ていて、うちの店の若いアルバイトたちも憧れてましたし、女性にもモテたと思いますよ(笑)。ゴルフ仲間ではありますが、店では仕事の話はしないし、人の悪口、噂話も一切しないから気持ちいい。うちに来るときが当時も今も、ムッシュが素に戻れる癒しの時間なのかもしれませんね」
と語ってくれた。坂井さんは今も店の常連であり、斉藤さんとはよきゴルフ仲間で親友という関係が続いている。
その後、バブル景気に入り、店は繁盛していった。'89年には『ジョン・カナヤ麻布』以来の顧客だった東邦生命保険相互会社の社長・太田清蔵氏から自社ビルの最上階という一等地に誘われた。
「100人ほどの席数で話をもらったときは足が震えた。それでもスタッフに背中を押され、挑戦しました」(坂井さん、以下同)
当初は順調だったものの、やがてバブルがはじけ、予約ゼロという日もあるほど窮地に追い込まれ“チラシを作って渋谷の駅で配った”と当時を振り返る。そんな中、仕掛けたのがレストランウエディングだった。作り置きではなく、その場でアツアツの本格フレンチを出すことを売りに必死に営業をかけた。
「ポツポツと予約が入って、ついに月に20件予約が入って店は軌道に乗り始め、やっと一息つけた」
そして、店が落ち着いたころ、突然降って湧いたのが『料理の鉄人』への出演依頼。その後のフレンチの鉄人としての坂井さんの活躍ぶりは前述のとおりだ。
息子も認める愛妻家。50周年までは現役を目指す
プライベートの様子があまり見えてこない坂井さん。その長男で、数々の外資系金融企業で実務に携わった後、2017年から『ラ・ロシェル』などの運営を手がけるサカイ食品の代表取締役社長に就いた坂井慎吾さんは、
「私に料理人になることを強いることもなく、進学先や仕事も好きに選択させてくれました。忙しいころは、朝早く出かけ、夜遅くに帰る父とはほとんど顔を合わすことはありませんでしたね。一度、母が体調を崩したときに、卵焼きを作ってくれましたが、子どもには本格的な味すぎて『お母さんのほうが甘くて美味しい』と言ってしまって。これを最後に家では作ってくれなくなりました(笑)。母とは仲がよく、食事や旅行に出かけたり、忙しくても必ず毎日連絡していましたね。今もしょっちゅう『愛してるよ〜』なんて言ってますよ(笑)」
と、その愛妻家ぶりを教えてくれた。
現在、店は基本的に後進のスタッフに任せ、調理場に立つことは少なくなったが、メニューの試食やチェックを続けている。客席にも顔を出し、笑顔で対応している。
「料理人は心身共に健康でないとダメ。トップが元気でないとね。今でも月に一度はゴルフ、ジムには週に2回は行ってます。店の50周年までは元気で頑張りたいね」
と語る坂井さんだが、慎吾さんには“90歳までは現役”と宣言しているという。
“料理人は思いやりと感謝の気持ち、人間性が大切”と語る坂井さん。
「何より自分の料理を食べてくれる人がいることの幸せに感謝して、これからも楽しくやっていきたいね」
屈託のない笑顔で語った。
<取材・文/松岡理恵>