ロンパールームの2代目先生として人気者に
朝日新聞社に勤めてすぐに、子ども向け番組『ロンパールーム』(日本テレビ系)の2代目の先生のオーディション取材を任された。自分もオーディションを受けるという体験取材だったが、最終選考に残っていたのはうつみと2人の美女。「自分が受かるはずがない」とはなから諦め、子どもたちと一緒に『かごめかごめ』を歌って遊んでいたという。
「私は子どもが大好きだから子どもにはなつかれるんです。たまたまその様子を現場で見ていたスポンサーの会長さんが『こういう庶民的な人がいい』と、私を選んでくださって。もうびっくりでした」
当時からうつみにはキラリと光るものがあったのだろう。タレントになるつもりはまったくなかったが、報酬が高かったことから、新聞社を退社してテレビの仕事を選んだ。弟や妹を大学に行かせたいという思いもあったという。

「当時の会社員の一般的な月給は10万円で、『ロンパールーム』の月給は16万円でした。ただし『衣装は全部自分持ち』というのが条件。一度着たブラウスを次の日は前後ろを反対にして着たり、紙をちぎって葉っぱの形にしてブローチにしたりして、お金をかけずに1週間の着回しを工夫しました。このときの経験が、今のおしゃれの基礎になっているのかも」と、うつみは振り返る。
1966年、『ロンパールーム』のみどり先生として芸能界デビューを果たしたうつみは、「鏡よ鏡よ鏡さん、みんなに会わせてくださいな」というフレーズで一躍テレビの人気者となる。
しかし、番組とは3年契約だったため、『ロンパールーム』はほどなく卒業に。このときうつみは27歳だったが、当時の芸能界では“おばさん”といわれる年齢だった。
「これからどうやって生きていこうか……」。進路を模索していたところ、バラエティー番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ系)のプロデューサーからスカウトされた。人気番組だったが「絶対レギュラーには入りたくない」と思いながら出演を決めたという。
「セクシーな格好で踊ったりするので、最初はもう恥ずかしくて。でも、どんなことも一生懸命やるタイプなので、司会の大橋巨泉さんと前田武彦さんにかわいがられて、レギュラーで出演するようになったんです」
そんなうつみの活躍を面白く思わなかった共演者もいたようだ。
「あるとき某女優さんから『あなたってブサイクね』と言われたんです。びっくりしたけれど、踊りの振り付けも覚えないといけないし、泣く暇なんてなかった。すると前田さんが『君はどんなにいじめられてもケロッとしていてえらいね』『ケロッとしているロンパールームの先生だからケロンパだ』と愛称をくださった」

それからはケロンパとして快進撃が続く。トークバラエティー番組『シャボン玉こんにちは』(TBS系)の司会者に抜擢され、のちに夫となる愛川欽也とともに「キンキン・ケロンパ」として親しまれるように。女優としてドラマや映画にも出演するようになる。
一方、当時は今よりも20代の独身女性に対して結婚へのプレッシャーが強い時代だ。早く結婚しなければとは思わなかったのだろうか。
「母は戦争で夫を亡くして苦労したので『男はあてにならない』と考えていました。『女性も頑張って一人で食べていけるぐらいの収入を得なさい』といつも言っていて、結婚をせかされるようなことはなかったんです。『自分がときめいているほうを選びなさい。仕事でも男性でも、気持ちは正直だよ』とも教えられました。20代は仕事が楽しかったし、仕事を辞めて結婚したいという人にはまだ出会っていなかったんです」