“二度と出会えない、いい男”愛川欽也との結婚

1978年、当時『シャボン玉こんにちは』のコンビ司会をしていた愛川欽也さんと結婚。以降、芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるように
1978年、当時『シャボン玉こんにちは』のコンビ司会をしていた愛川欽也さんと結婚。以降、芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるように
【写真】愛川欽也さんと結婚した当時の貴重ツーショット

 そんなうつみが愛川さんとの結婚を発表したのは、36歳のときだ。のちにおしどり夫婦として知られるふたりだが、当時は驚きとともにバッシングにさらされた。入籍したのは愛川さんの離婚が成立した翌日だったからだ。

 このとき愛川さんは「取材は全部自分が引き受けるから、お母さんと一緒に海外にでも行ってきなさい」と告げ、うつみと母親はカナダへ旅行に行くことに。こうしてバッシングから守ってくれたという。

「離婚にあたって財産は前の家族に全部置いてきて、『裸一貫でもう一度人生やり直す』と言ってくれました。母は『そこまでやれるのは立派だ。あれは本当の男だから結婚しても絶対幸せになれる』と結婚を後押ししてくれたんです」

 うつみにとって愛川さんのどんなところが魅力的だったのだろうか。

「キンキンとは笑うツボが同じ。それって一緒に生きていく上で大事ですよね。人を区別、差別しないところも素晴らしかったです。裏方のスタッフを見下すような発言をする人には本気で怒っていましたから。見えないところで努力している人をリスペクトして、裏方さんと一緒に演出の枯れ葉を作ったりしていたのを覚えています」

 美空ひばりさんの母親にも気に入られ、夫婦で自宅に遊びに行ったこともある。

「ひばりさんは『シャボン玉こんにちは』に何度も出演してくれて、時にはお母さんとともに登場してくださったりもしました。キンキンが、お母さんが持ってきてくれた手作りの塩辛を生放送直前に『おいしい』『世界一だ』ってパクパク食べるものだから、隣の私は時間が押すことにヒヤヒヤしたことも(笑)。でもそんな心の温かさが最大の魅力でした」

 おしゃれなうつみだが、愛川さんはファッションにこだわるのを嫌がったという。

「ワイシャツが古くなったから注文してあげると、『そんなのは着ない。まだ着られるからこれでいいんだ』って、ボロボロのものを着てるんです。ブランドの服で固めることは頑なに拒んでいました」

 2009年に誕生した「中目黒キンケロ・シアター」は、愛川さんがうつみのために建ててくれたものだ。

「私が歌うのが好きだからと知らない間に建ててくれて、稽古場もつくってくれました。この劇場は長時間座っても腰が痛くならないよう、座席は飛行機のファーストクラスと同じ椅子を使っています。最前列と舞台の間は車椅子が通りやすいよう広くとっているのもキンキンの優しさですね。つくづくキンキンは人生で二度と出会えない、いい男だったと思います」

 母が亡くなった後、愛川さんがうつみには内緒で、母に毎月お小遣いを渡していたことも知った。

「そのお金に母は手をつけず、私の名義で貯金をしていたんです。愛にあふれた人たちでした」

 愛川さんが肺がんで亡くなったのは2015年。80歳だった。周囲には病気のことを知らせず、本人の希望により、入院はせず在宅で治療を続けてきた。

「仕事が大好きだったから、息を引き取る直前まで『仕事に行こう』とうわ言のように言っていて。キンキンがいなくなるなんて考えられなくて、1、2年間はほとんど記憶がないです」

 うつみとも愛川さんとも仕事をしてきた俳優の東てる美は、2人の関係を「愛川さんがうつみさんの手のひらで転がされている感じだった」と語る。

「妻のために劇場までつくれる人なんてなかなかいませんよ。おしどり夫婦だったから、愛川さんが亡くなったときは、うつみさんに声をかけられるような状態ではなく、心配しました。今は舞台もご一緒させていただき、お元気になられて本当によかったです」

 うつみと東は実は中学・高校の先輩後輩にあたる。

「普段はテレビのイメージの明るさや元気さよりも、知的でスマートな印象のほうが強いです。舞台の長いセリフや歌を覚えるのも、相当努力されていると思いますよ。愛川さんとともに平和を愛していて、『戦争がテーマの舞台は苦しくてできない』とおっしゃったのを覚えています」