六本木で噂になり、才能を見いだされる
大阪で生まれ、福岡で暮らしていた中村は、3歳のときに両親が離婚。父親とともに大阪に移り住み、その後すぐに父親が再婚、中学3年までを過ごしたが、新しい母親としっくりいかず、福岡で高級クラブを経営する実母のところへ身を寄せることになった。
「大阪時代は反抗期でやんちゃで通っていましたが、福岡の高校は男子が多かったので、アイドルみたいにちやほやされて。モテモテでした(笑)」
しかし福岡で暮らしたのは半年だけだった。東京に住む作曲家、故・平尾昌晃さんのもとで芸能界を目指すことになったのだ。
「母と平尾さんが知り合いで、母は私に歌手になってほしいという思いがあったんです。平尾さんは当時、歌手やタレントの育成にも力を入れていて。私も深く考えず『なんだか面白そう!』『歌手もいいけど女優になりたい!』といった軽い気持ちで上京することにしたんです」
親の都合に振り回された子ども時代だが、中村には恨み節がない。前を向いてそのときどきのパッションを大切にして生きる。中村は16歳のときからロックシンガーとしての片鱗を見せていた。
平尾さんのところで居候として暮らし、明治大学付属中野高校定時制に編入。ここは芸能人が多く通う高校で、同級生にはシブがき隊、少年隊、三田寛子、石川秀美などがいた。
「でも3か月後には平尾さんのところを飛び出して、一人暮らしを始めました。人がたくさん出入りする環境になじめなかったんです。6畳一間の家賃3万8000円のアパートを借りて、ようやく自分の居場所を見つけられました」
当初は実家からの仕送りがあったが、義父の会社が倒産したことで仕送りがストップ。中村は16歳にして生活費を自分で稼がなければならなくなる。
「昼間は貴金属店で外商のバイトをしていたのですが、営業成績がよかったんです。お金が貯まったので、毛皮を買って、それを着て夕方から登校し、そのあとはディスコやカラオケパブで遊ぶ生活に。ちょうどバブルの時代だったので、華やかな六本木で過ごすのが楽しくて、歌手になることはすっかり忘れてしまいました」
しかしスターになる人はキラリと光るものを隠せない。キュートなルックスにハスキーな声の個性的な女の子がいるという噂はすぐに六本木に広まった。そのときコンタクトを取ってきた一人が、のちにマネージャーとなる元レコード会社のプロモーター・石岡和子氏だった。そこから運命の歯車が回り始める。
「ある日、ボーイフレンドと遊んで家に帰ると、住んでいた部屋が泥棒に入られていたんです。もう怖くて怖くて、電話番号をもらっていた石岡に思わず電話したら『すぐにいらっしゃい』と。石岡のお母さんが経営していたお店に泣きながら駆け込みました。そこにやってきたのがプロデューサーの高橋研さんでした」
高橋氏は当時、THE ALFEEの『メリーアン』の作詞を共作しており、のちに美空ひばりさん、小泉今日子、沢田研二、矢沢永吉といったビッグネームの楽曲も手がけている。中村がカラオケで歌うのを聴いた高橋氏は「あの子はロック歌手として絶対に売れる。僕にプロデュースをさせてほしい」と石岡氏に頼んだという。
一方の中村は「高校に行きながら働いているので歌をやる余裕はない」と最初は突っぱねた。しかし、石岡氏から説得され、高橋氏のレッスンを受けることに。
「歌手になるつもりはなかったのに、自分の反骨心が歌の世界とマッチして、楽しくなってきたんです。デモテープを作ってとんとん拍子にレコード会社も決まり、1984年、18歳でデビューしました」
そこから1年後に発表したサードシングル『翼の折れたエンジェル』が、「カップヌードル」のCM曲に抜擢され、大ヒット。中村あゆみの名前は全国に知れ渡ることになった。
しかし有名人になってもアイドルのように「恋愛禁止」と言われることはなく、相変わらず六本木で遊び、ボーイフレンドも常にいた。当時のことをマネージャーの石岡氏が振り返る。
「サファリパークにいる野生動物のように自由奔放な子でした。私生活を厳しく管理すると、あゆみちゃんのいいところが消されてしまうと思ったので、芸能界のしきたりみたいなものもあえて伝えなかったんです。でも昔から優しい子で、誰からも可愛がられて、スキャンダルになることもありませんでした」
その後もバンドメンバーと恋仲になったりしたが、当時の恋愛から学んだことがひとつだけある。
「職場恋愛は公私混同になって大変だから同業者とは付き合わない。結婚するなら一般人と心に誓いました」


















