小倉智昭さんの助言でゴルフを始める

 離婚後、元夫から養育費は受け取らなかったため、生きていくためのお金が必要だった。一世を風靡したとはいえ、ブランクがある中村にすぐに歌手としての仕事が来るわけではない。

「最初は母親がやっている福岡のクラブを3か月だけ手伝わせてもらって生活費を稼ぎました。私が歌えばお店は満員になり、売り上げもアップしたんです」

 少しずつ音楽の仕事が増えていったのは、かつて仕事をしていたスタッフから声がかかるようになったからだ。

「デビュー当時、現場を駆けずり回っていたADが決定権のあるプロデューサーという立場になっていたりして、『ぜひ僕の番組に出てください』と、ほうぼうで声をかけてもらえたんです」

 さらに『翼の折れたエンジェル』のストロングバージョンがキリンビールのCMに使われたことで、再び中村が脚光を浴びるようになった。

「思えば私の人生は『翼の折れたエンジェル』に2回もステージを与えてもらったことになります」

 フリーアナウンサーの故・小倉智昭さんも中村を応援してくれた一人だ。番組に呼んでくれたり、ゴルフを教えてくれたりした。

「『ゴルフはやっておいて損はないから』って言われたのですが、これは本当でした。子育てでストレスがたまったとき、青空に向かってボールを打ち込むことで発散していました。ゴルフでできた友達も多く、みんなライブに来てくださるんです。小倉さんには足を向けて寝られないと思っていました」

1986年、6枚目のシングル『ちょっとやそっとじゃCAN'TGETLOVE』が化粧品会社のキャンペーンCMソングに起用される
1986年、6枚目のシングル『ちょっとやそっとじゃCAN'TGETLOVE』が化粧品会社のキャンペーンCMソングに起用される

 一方で子育ては一筋縄ではいかず、悩むことも多かった。娘は小学校6年から大学2年ぐらいまで激しい反抗期が続き、手を焼いたという。

「反抗期の最中は『こんなことを言われるためにあんたを産んだんじゃない。ふざけないで!』と頭にくることも多々ありました。でも後から思えば反抗はママへの愛の裏返しだったのでしょう。どれだけ困らせても、ママは大事にしてくれる、許してくれるという確認が欲しかったんだと思います」

 ようやく落ち着いた娘は大学卒業と同時に家を出て、一人暮らしをすることに。

「寂しかったけど、一生手元に置いておくわけにはいかない。人としてちゃんと学ばなきゃいけないことを、私のそばにいたら学べないですから」

 今は娘とは親友のような関係で、音楽への助言もしてくれる。

「最先端の音楽を聴いている娘から『ママはラップとかやらないほうがいい。無理だし』と上から目線で言われたり(笑)。子育てで私も成長できましたし、彼女は私を選んで生まれてきてくれたんだなって今は実感しています」