アルバム『中森明菜Tribute Album“明響”』(ワーナーミュージック・ジャパンHPより)
アルバム『中森明菜Tribute Album“明響”』(ワーナーミュージック・ジャパンHPより)
【写真】「不死鳥のよう」話題になった、“38万5000円”トップスを着た明菜

 2024年12月、明菜の父・明男さんが亡くなった。きょうだいが連絡するも、明菜からは今も音沙汰がない。それは、家族が明菜のお金を使い込んでいると疑ったことが原因とされる。明菜と最後に会ったのは、母親が亡くなった1995年。断絶して30年の月日が流れた。

父を火葬した日に、きょうだいで実家に集まったんです。父と明菜の思い出についても話題にあがりましたが、やはり他人と養子縁組をしていたことについて、みんな悲しんでいました」(実兄、以下同)

 明菜が中森の姓を捨て、所属事務所の女性社長と養子縁組したことは、すでに2月4日発売の週刊女性で報じた。

 中森家との完全なる決別を示す、明菜の意思表示なのかもしれない。しかし、時代を象徴する歌姫と呼ばれた明菜の原点こそ、中森家にあった。

娘の明菜に託された母の夢

「歌い方とか口の開き方とか、母親が教えていました」

 明菜の母・千恵子さんは、歌手を目指し上京した。東京・新宿のキャバレーで働く中で、明男さんと出会い結婚。6人の子宝に恵まれた。

「美空ひばりさんのような歌手になりたい!」

 千恵子さんが熱望した夢は、娘である明菜に託された。

 1981年、3度目の挑戦となったオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)で合格。1982年にデビューすると、瞬く間にスターの階段を駆けあがる。

 ただ、家族の前では変わらない明菜だった。

「家族で静岡県の伊豆に旅行したことがありました。デビューして1~2年たち、明菜がもう人気になっているころです。明菜は本当に楽しそうにしていたし、旅館では母親と夜遅くまでいろんなことを話していました

 頑張った自分を褒めてほしい。明菜には、そんな思いがあったのかもしれない。