目次
Page 1
ー アイドル的な雰囲気を求められて
Page 2
ー デビュー後3年間はヒットに恵まれず ー 「学園祭の女王」から「ロックの女王」へ
Page 3
ー 豪雨の中、夜通し行われた野外ライブ ー 移住先のロンドンで新たな光が
Page 4
ー お蔵入りにしたデモテープ
Page 5
ー 母への思い出を綴り、展示会も開催

 白井貴子と聞いて思い浮かぶのは、ヒット曲『Chance!』と、代名詞である「ロックの女王」「学園祭の女王」だろう。1981年のデビュー時、まだ日本人で女性がロックをやるなんて憚られる時代に女性ロックシンガーとしての地位を確立して、時代を切り開いた。

 現在ではミュージシャンにとどまらず、生まれ育った神奈川県の「かながわ環境大使」としてさまざまな環境保護イベントに携わるほか、日本全国の自然や伝統工芸などを守る人々と触れ合い、小学校の校歌を作詞、作曲するなど、人と自然に寄り添う活動を続けている。来年、デビュー45周年を迎えるにあたって「白井貴子&THE CRAZY BOYS 45周年に向かってカウントダウン」と掲げたライブを横浜と大阪で控えている。今なお多方面で活躍している、そのバックボーンを追ってみた。

アイドル的な雰囲気を求められて

10歳ぐらいのころ、明治神宮で母、弟と記念撮影
10歳ぐらいのころ、明治神宮で母、弟と記念撮影

「私は神奈川県藤沢市生まれで、父も母も歌が大好きでした。学生時代の父は普通の大学生でしたが、声がいいからアナウンサーのテストを受けてみろと先生に言われて、NHKのアナウンサー試験を受けたら最終面接あたりまで進んだそうです。母はずっと昭和気質の頑固な父に尽くし、家事すべてをきちんとこなして家族に尽くした人でした」

 音楽に目覚めたのは、ビートルズとの出合いだ。

「小学生のころ、当時大学生の叔父・叔母と共に暮らす大家族で、叔父はビートルズの大ファン。いつも家にビートルズが流れていました。夏には江の島の海の家でアルバイトしていたので、よく私も遊びに行きましたが、ちょうどサンオイルブームで江の島の海は一面ギトギト。『なんで大人はこんなことするの?』と。私の環境マインドの原点かもしれません」

 幼少期からピアノを習い、学生時代もバンド活動をしていた。プロを夢見た十代だったと思いきや、まったくそんな気はなかったという。

小学生のときは女子サッカー部に所属
小学生のときは女子サッカー部に所属

「ピアノを習っていたのは、父が昔気質の性格だから。男はスポーツ、女はピアノという単純な理由でした。だから昔はピアノの練習が大嫌いでしたね。普通に会社員として働くよりは、お花屋さんか、ピアノ教室の先生とか音楽に関わる仕事がしたいという感じでした」

 北山修のヒット曲やショーケン(萩原健一)、ジュリー(沢田研二)などのグループサウンズは大好きだったが、当時の流行だったアイドルには無関心だった。

「京都に引っ越した中学、高校時代は、一気にデヴィッド・ボウイやT―REXのグラムロックに夢中になりました。日本のバンドのコンサートにも行きましたが、サディスティック・ミカ・バンドとキャロルの対バンは衝撃でした。

 その後、ヨーコ・オノさんが日本に来ると知り、少しでもジョン・レノンに近い人に会いたいという思いから、友人と『ワンステップ・フェスティバル』を見に郡山へ遠征。盛り上がってはっちゃけた姿が『女子高生もノリノリ』みたいな見出しで週刊誌に掲載されて、地元で知られてしまった(笑)。'74年だからまだ15歳!」

 そんなロック少女の白井は'81年に当時のCBSソニーからメジャーデビューを果たした。しかし当時は松田聖子がブレイクしてアイドル全盛期を迎えていて、ルックスの良い白井も、ソロ歌手としてポップでキャッチーな雰囲気を求められた。竹内まりやもデビューから続くアイドル的活動に悩んだ末、'81年に活動停止した。そんな時代だった。白井のデビュー時のキャッチコピーは、“世界一キュートなシンガーソングライター”だった。

「日本の音楽に疎い私がなぜ、ソニーの大プロデューサー、酒井政利さんの部署からデビューすることになったのかは謎ですが、ちょうど山口百恵さんが引退された直後で『同じ部署、同い年なのにこの違いはすごい』と感じたことが懐かしいです。

 基本的にフォークソングが苦手で。ボブ・ディランですら、なんであんなベチャッとした歌い方をするのと思いました」