豪雨の中、夜通し行われた野外ライブ

'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った
'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った
【写真】80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った頃の白井貴子

 '87年8月、広島サンプラザホールで山本コウタロー、南こうせつを中心とした「広島ピースコンサート〜平和がいいに決まってる」にはバンドブーム後の'90年代も日本にいる限り参加し、最終的には女性で最多出演。安全地帯、尾崎豊、RED WARRIORS、HOUND DOG、久保田利伸らと出演。このイベントでは、'93年に「PEACE BIRDS ALL―STARS」名義で泉谷しげる、大友康平、中村あゆみ、南こうせつらとテーマ曲『青空の下のHEAVEN』をリリースしている。

 さらに同年同月22〜23日には、熊本県阿蘇郡久木野村(現・南阿蘇村)で7万人を動員しながらも、集中豪雨に見舞われた12時間イベント「BEAT CHILD」にも出演。

「オールナイトニッポンの本番日、楽屋で選曲作業をしていたときでした。いきなりデビューしたての尾崎豊くんが『白井貴子に会わせろ!』とノックもせずに入ってきたんです。あまりにも突然で驚いてしまい、帰ってもらいましたが、そのすぐ後に熊本のイベントで再会したんです。お互い微笑み合っただけで会話はありませんでした。もっとゆっくり話すことができたらよかったなと思います」

 その熊本でのイベント「BEAT CHILD」は豪雨の中を朝まで12時間行われ、今では伝説として語り継がれ、2020年には封印されていたフィルムが劇場限定公開された。

 18時開演、20時ごろの岡村靖幸のステージの途中で激しい土砂降りに。次の出番を待つ白井は、約1時間半の中断を余儀なくされる。結果、3万人収容予定だった阿蘇山麓の高原に約7万人が集まったものの、真夜中に下山するのは危険で収容させる宿もない、と警察がイベントを朝まで続行させるように指示。白井はまったく視界のない状態で、モニターもバンドメンバーもテントに避難する中、演奏をすることに。

 豪雨のステージで全身ずぶ濡れの白井が転びながらシャウトしている姿を、バックステージで全出演者が食い入るように見ている。

 当時、特に過激なパフォーマンスと荒々しい客席の盛り上がりが話題だったTHE STREET SLIDERSの蘭丸ですら、何が起こっているんだという、まるで宇宙人や天変地異に遭遇したかのように目を見開いて硬直して見ていた姿が、劇場スクリーンに映し出されていた。

「あのとき、バックステージもドタバタで、出演者もスタッフも騒然としていました。結局、警察の要請で再開することになって、いざステージに上がろうとしたら関西出身の事務所の社長が、『お客さんがずぶ濡れなんだから、貴子もバケツで水をかぶって全身ずぶ濡れになれ!』と檄を飛ばすんです。

 もうとっくに私も豪雨でボロボロでしたが、思わず『ハイ!』と返事をして水のたまったバケツを持ち上げて頭からかぶろうとしたら、重くてうまくいかなくて転んじゃった(笑)」

 白井のステージによってその後に続くHOUND DOG、BOOWY、尾崎豊、渡辺美里、佐野元春らが発奮し、イベントは伝説化された。このステージパフォーマンスによって、白井はロックの女王としてさらに注目を集めた。

 しかし、人気が出るのに比例して、ラジオの深夜放送を2本、年に3枚ほどのシングル発売、毎年のアルバム発売、年間200本の全国ツアーというサイクルに、だんだん疲弊していった。

移住先のロンドンで新たな光が

'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った
'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った

 そして30歳が近づいて将来を考えた結果、海外で挑戦したいという気持ちも重なり、いったん活動停止して、'88年にレコード会社と事務所の契約を終えてロンドンへ移住。

 共に移住したTHE CRAZY BOYSのギタリストである本田清巳は、このままだと白井は倒れて死んでしまうのではないかと危惧したほど心身ともに疲弊していたと語った。男女雇用機会均等法が制定されたのは、'85年。それまで女性には厳しい時代の中、白井は戦ってきた。

「日本である程度やれることはやりきったと思ったので、一度しかない一生を思うと、海外に出てみたかったのと、特に当時はまだまだ日本の女子の社会的状況は30歳になったらこのままどうするの?的な追い詰められる空気感があった時代でした。でも私は30歳を過ぎても自分の音楽を追求したかったので、大好きなアーティストがたくさん生まれたブリティッシュロックの地で暮らしてみよう、とイギリスへ移住しました」

ロンドンに移住時、古道具店で珍しいアンプを見つけて
ロンドンに移住時、古道具店で珍しいアンプを見つけて

 一念発起して渡英した白井に、言葉の壁が立ちふさがる。

「現地で音楽面から生活面まですべてサポートしてくださった、加藤ヒロシさんという方がいまして。彼は奥様と一緒に戦争孤児のエミーという少女を養子に迎えていたんですね。ある日、まだ3歳のエミーがテレビを見て笑っていたんです。

 でも、毎日必死に英語の勉強をしているのに私にはその英語がわからなかった。結局、30歳を過ぎてから英語を勉強しても、3歳がわかるものすらわからないんだと打ちのめされて、英語の習得は諦めました

 さらに、海外マーケットへの挑戦ということも、世話になったソニーのディレクターに相談をしたら、今の海外セクションは松田聖子の海外進出プロジェクト一色のため対応できないという回答が。しかし、そんな状況でも差し込む光を見つけた。

「英語学校に通っていた日本人女性の多くが、日本の会社では、ある程度の年齢になるといわゆる肩たたきをされ、お払い箱となって居場所がないというのです。私と同じ悩みを持ち、新しい環境や武器を求めてこうして海外にやってきた女性たちを見て、応援する気持ちが生まれました。

 音楽面でも、もっと日本人の心に残るものを作りたい、坂本九さんや北山修さんのような、愛される曲を歌いたい、と思うようになりました」

 この思いは'16年に北山と共作した『涙河』へと発展していくが、その前に、'90年に帰国した彼女の目に飛び込んできたのは、バブル狂乱で浮かれまくる日本の姿。誰もが派手に遊び回り、大量消費する時代。環境保護どころか、環境破壊の限りを尽くしていた。