デビュー後3年間はヒットに恵まれず

大学のジャズ研に加わり、慶應大学三田学祭のステージにて。「モッキンバード」というバンドで初めてボーカルを経験
大学のジャズ研に加わり、慶應大学三田学祭のステージにて。「モッキンバード」というバンドで初めてボーカルを経験
【写真】80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った頃の白井貴子

 白井がデビューに向けて所属したのは、フォーク系アーティストの名門である「ヤングジャパングループ」という事務所。アリス、海援隊、バンバン、岸田智史(現・敏志)などが在籍。白井は佐野元春とともにロック色の強い新勢力として成功し、渡辺美里、岡村靖幸、KAN、谷村有美、森高千里などが育った。

 事務所は子会社のツーバン・メイハウス(現・アップフロントグループ)を立ち上げ、シャ乱Qやモーニング娘。で、一世を風靡した。しかし、白井が在籍したときは事務所がまだフォーク寄りであり、女性アーティストを育てるノウハウもなかった。

「1浪してしまい大学受験する際、100万円くらい必要だったので、八百屋さんでアルバイトをしました。そこのオーナーの奥様が当時人気絶頂のアリスの大ファンで、一日中アリスをラジカセで流しているんですよ。私が大根を洗っているときにずっと、大ヒットした『チャンピオン』の“ライラライラライ”ってフレーズが店内に響いていて、もうやめてー!って気持ちでした(笑)。

 その後、デビューにあたって事務所に挨拶に来なさいと呼ばれ、「白井貴子と申します。みなさまよろしくお願いします」とお辞儀をして顔を上げたら、そこにはアリスの谷村新司さんが(笑)。驚きましたが、人懐こい笑顔で迎えてくれました」

 手をたたいて笑いながら話す、屈託のない表情。「ロックの女王」でありながら、ナチュラルな魅力を持つところが、新しい時代のクイーンとして時代に刺さったのだろう。また、この親しみやすさは'99年から26年もの間、お茶の間に浸透してきた「花王ビオレu」のあけみママの声優としての活躍とも重なる。

 事務所には海援隊も所属していて、武田鉄矢のラジオでアシスタントパーソナリティーを務めるようになった。武田がいつも坂本龍馬の話をするので、きちんと理解できるようにしておかないと、と白井は龍馬について学ぶうちに、自分自身がその生き方に心酔するようになった。

 そして白井は、'80年にレコードデビューした事務所の先輩である佐野元春のコーラスを経て、翌年にデビューしたが、事務所は男所帯で白井は女性第1号。

「スタイリストの方はいますか?」と聞いたら「そんな予算はない! ジーパンとTシャツでええやないか」と返されたという。

「今から思えば女性アーティストの売り方の経験がない事務所でした。とにかくシングルヒットを飛ばす一念でしたが、2年たっても鳴かず飛ばず。仕方なしに衣装も母に縫ってもらいました。いちばん安く、思いどおりの衣装ができると思ったからです」

「学園祭の女王」から「ロックの女王」へ

'85年に結成した「白井貴子&THECRAZYBOYS」
'85年に結成した「白井貴子&THECRAZYBOYS」

 '84年、9枚目のシングル『Chance!』がシチズン時計のCMソングに起用され、オリコン最高12位、約10万枚のヒットに。

「私は何がなんでも売れたいというよりも自分の手で明るくて元気でキュートなポップロックを作りたいと思っていました。世界中でヒットした『上を向いて歩こう』みたいなシンプルで誰もが歌える希望となる音楽を自分の手で作りたい!と」

『Chance!』は、まさにチャンス。作っているときからこれはいけるな、と手応えを感じたという。

「わかりやすいシンプルな曲を作りたいと思っていたので、日本語として通用する英語を探したんです。そこでチャンスという言葉が浮かびました。誰もが使う言葉で、英語なんだけど日本語にもなっている。私にとっても、探していたチャンスでもあると。坂本九さんと同じように、人に勇気とか元気とかを与えて、上を向かせる曲にしたいという思いも込めて、やっぱりチャンスがいいなと」

 この曲のヒットによって、大学の学園祭に最も出演した「学園祭の女王」と呼ばれ、いつしか「ロックの女王」へと成長していった。そして念願だった自身のバンドである「白井貴子&THE CRAZY BOYS」が徐々に形になり、『Chance!』を含む5枚目のアルバム『Flower Power』からバンド名義で発売することに。

 このアルバムを引っ提げたツアー用のパンフレットやグッズ、ポスターなどは、人気イラストレーターの安齋肇によるもの。以来、親交を深めている。

「お転婆なお嬢様がロックにハマっちゃって困ってるんだけど、なんとかならない?

 サイコーにイカした事務所でしたよ、男だらけのロックの猛者を集めたような。それが初めて女性アーティストを扱うことになって、猛者たちは戸惑ったみたい。白井さんはいかにも素敵なお嬢様って雰囲気だし、ロックのイメージになかったタイプだから。

 だから彼女は頑張ったんですよね、大変だったと思います。ロックのカテゴライズってアタマ固いから。白井さんのロックがポップで支持されたのは、事務所も、スタッフも、ファンも、彼女をアーティストとして尊敬していたし、何より彼女が頑固だったからじゃないでしょうか。

 いまやビートルズがスタンダードになったように、いま多様化しているこの音楽世界の中で、白井貴子というスタンダードを築いてほしいと願ってます。それができる人だから」(安齋)

 当時は人気アーティストによるラジオ番組が人気で、白井は深夜番組の王者である『オールナイトニッポン』の第2部を任された。

「ラジオも毎週3時間の生放送で大変でしたが、楽しかったですね。自分がティーンエイジャーのころ、大好きで夢中になった曲を全国のリスナーに聴いてもらえるのがうれしかった。ラジオを通じて洋楽が好きになったって、いまだに言われます」

『白井貴子のオールナイトニッポン』は、毎週火曜日午前3時からオンエア。桑田佳祐の第一部に続いて、第二部を担当していた。'85年、桑田の放送が大幅に時間延長して、白井の番組開始時間に食い込んでしまった。そのとき、桑田がそのまま白井の番組に出演。即興でビートルズナンバーを2人で弾き語りして大きな話題となった。

 鈴鹿サーキットで毎年開催されているオートバイレースの「鈴鹿8時間耐久ロードレース」に出場していた、島田紳助氏率いる「チーム・シンスケ」に感銘を受け、'86年に発売した『NEXT GATE』で『ザ・ベストテン』の名物コーナー「今週のスポットライト」で番組初出演。『夜のヒットスタジオ』にも出演し、日本武道館公演を経て、'86年8月には西武球場(現・ベルーナドーム)で単独ライブを実現させた。