お蔵入りにしたデモテープ
「イギリスは400年前の産業革命で環境を大破壊してしまった経緯から、今では環境意識がとても高い国だと感じました。私が渡英したときはチェルノブイリ原子力発電所の事故直後だったこともあり、ロンドンでそんなことを歌った曲も生まれて、コツコツとデモテープを作りましたが、『今、この曲を日本で出しても焼け石に水だ』と思い、お蔵入りにしました」
'93年に白井は、陰日なたで長年支えてきてくれた本田と結婚。同年、横浜市立倉田小学校の校歌を依頼され、『大好き 倉田小』を作詞、作曲。以降、全国の学校や自治体などから楽曲制作依頼が届くようになった。

2000年代に入ってからも、南伊豆に9900平方メートルもの広大な森を購入し、「マーガレットグラウンド」と名づけ、「PEACEMAN CAMP」などさまざまな自然体験イベントを行っている。
'11年、東日本大震災の被災地で復興支援に。現地で「心を励ます歌が欲しい」という声に応え、翌年に『陸前高田 松の花音頭』を制作。その被災地で、豊中市社会福祉協議会の勝部麗子さんと出会う。

「勝部さんが『8050問題』に取り組まれていて、50代のひきこもりの人が150万人も日本にいることを知りました。50代といえば、私のファンの皆さんの年齢のど真ん中。そこで音楽を通じて一緒に取り組めないかと思い、ご連絡したのが始まりでした」
勝部さんが常勤している大阪府豊中市は、白井の祖母の実家があり、母の故郷である。そこには服部緑地 日本民家集落博物館がある。
「お母様の介護と自身の音楽活動の間で悩まれていました。そこでお母様が幼いころから遊び親しんだ故郷の地で、それも博物館の茅葺き屋根の民家で歌ったら素敵じゃないかとイベントの提案をしました」(勝部さん)
'80年代の全盛期にあらゆるステージ衣装を縫ってくれていつも応援して支えてくれた白井の母、光子さんは10数年間、リウマチの痛みに苦しみ、パーキンソン病と診断された。そこから白井が藤沢の実家に戻って同居し、在宅介護の生活を送ったのち、'22年5月に息を引き取った。
「2階で楽曲制作中に母の苦しむ声が聞こえ、下におりて身体をさすりながら制作中の歌を歌って聴かせ、痛みが少しでも和らぐようにと願いました」
このときに制作していた曲は、『Mama』というタイトルで'19年に開催された還暦ライブで両親出席のもと、お披露目された後、'23年にデジタル配信された。
その年、豊中市服部緑地 日本民家集落博物館 日向椎葉の民家において、「『ありがとうMama』母の日スペシャルイベント」が初開催され、現在も続いている。